2011年11月15日火曜日

第三弾:観音寺市教育委員会への公開質問状 その3


ここで南京大虐殺が嘘である証拠をいくつか申し上げます。



例えば、



・蒋介石も毛沢東も、南京大虐殺について何も言っていない。



・国際連盟も、南京大虐殺について何も非難していない。



・外国政府で、南京大虐殺を非難した政府はない。



・南京大虐殺の証拠写真は、一枚も本物がない。偽写真や剽窃写真ばかり。



・南京陥落後、我が国の新聞記者、カメラマン、従軍作家、従軍画家が150名以上南京に入ったが、誰も虐殺を見ていない。



 ・虐殺したと言う元日本兵達は、その嘘がすべてバレている。

(例:東史郎、曽根一夫、中山重夫、富沢孝夫、北山与、上羽武一郎、舟橋照吉、太田久男、奥宮正武、各氏)







【一次資料『南京安全区の記録』】



 ここで、当時の一次資料である『南京安全区の記録』を取り上げます。



 当時、南京の人口100万の内、80万は南京から避難し、残る20万の難民が南京城内の安全区に集まり、それを外国人15人の国際委員会が管理した。



この国際委員会は、南京大虐殺があったと言われる2ヶ月の間、日本大使館に対して合計69通の抗議文を出し、その中で424件の事件について日本大使館に抗議を行っております。



その抗議文をまとめた本が『南京安全区の記録』です。



その424件の内、なんと驚くなかれ、殺人事件はたった22件しかなく、さらに、その内、目撃者のいる殺人事件は、たった1件しかなかった。

さらに、その1件の目撃事件は、虐殺ではなく、不法戦闘員の合法的な処刑であった。それを目撃した外国人クレーガーとハッツ両名が抗議文の中でその事を書いています。



以下、その引用。



『我々は日本軍による適法な処刑について抗議する権利はないが、(中略)池で人を殺すのは、池の水を汚染し、その為、地帯内の住民への給水源が深刻に減少をきたすのである。このところの長期にわたる日照り続きと、市による水の供給が遅れている際に、非常に深刻な問題である(クレーガー、ハッツ)』

(『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』冨澤重信、展転社p.240



22件の内、唯一の目撃事件は、合法的な不法戦闘員の処刑だったのです。



そして抗議の目的は、池の水を汚すな、と云うものです。





この国際委員会の抗議文は、南京戦の2年後、昭和14(1939)、重慶の蒋介石政府が序文を付けて『南京安全区の記録』として出版されています。



DOCUMENTS  OF  THE  NANKING  SAFETY  ZONE,

edited by SHUHSI HSU, PH.D 

sometime Adviser to the Ministry of Foreign Affaires,

Prepared under the Auspices of the Council of International Affaires,

Cungking

CARY AND WALSH CO.

Shannghai, Hongkong, Shingapore, 1939



(邦訳:『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』冨澤重信、展転社)



この本の題には、蒋介石政府の外交部元顧問の徐淑希が編集し、『重慶(政府)の国際問題研究所の援助により編纂』と書かれています。これは、この本が蒋介石の政府機関の準公文書である事を示しています。



蒋介石政府の準公文書の中で、南京における「目撃された虐殺事件」は0件だったのです。

「目撃された虐殺事件」は、1件も無かったのです。



それを蒋介石政府が認めているのです。



 この蒋介石政府の準公文書『南京安全区の記録』だけでも、南京大虐殺が嘘である事が証明されています。





【日本の国会議員と南京大虐殺】



また我が国の国会においても、平成19(2007) 525日の衆議院外務委員会において、民主党・松原仁議員が根拠を示して南京大虐殺を否定し、政府の見解を質しております。その模様は下記のユーチューブで見ることができます。










 また、平成19年、自民党国会議員有志による「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(中山成彬会長、元文部科学相)が、南京事件を当時の一次資料をもとに検証し、南京虐殺はなかった、との報告書を発表し、その報告書は



『南京の実相』日本の前途と歴史教育を考える議員の会編 2008、日新報道社



として出版されています。







【南京大虐殺に対する「国際的な非難」】



 次に、東京書籍の教科書の欄外注にある南京大虐殺に対する「国際的な非難」に関しては、私が東京書籍に質問したところ、ニューヨーク・タイムスとマンチェスター・ガーディアンの新聞記事をその論拠として示されました。



しかし、それらの新聞記事の材料を提供したアメリカ人、マイナー・ベイツは蒋介石国民政府の顧問をしていた人物であり、記事を書いたニューヨーク・タイムスのダーディン記者は蔣介石と非常に親しい国民政府側の人物であり、またマンチェスター・ガーディアンの記事を書いたティンパーリー記者は、国民党政府からお金をもらって秘密工作、プロパガンダ活動をしていた人物であった事が、当時の国民政府の機密資料から明らかになっております。



出典:東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社

北村稔『「南京事件」の探求』文春新書



すなわち「国際的な非難」の証拠とされている新聞記事が、蒋介石政府と深い関係にある外国人記者によって書かれたプロパガンダ記事である事が、今日では明らかになっております。



東京書籍に、そのような事実を示して、それでも「国際的な非難」はあったとお考えですか、と問い合わせましたが、それに対して東京書籍は、もうこれ以上回答しない、と返事をしてまいりました。



嘘をつき、それを指摘されて、都合が悪くなると、回答拒否です。





回答拒否という事は、南京虐殺に対する『国際的な非難』がプロパガンダである事を東京書籍が認めた事に成ります。



なぜなら、反論出来ないからです。



もし私が間違っており、東京書籍が正しければ、東京書籍は堂々と論拠を出して私に反論し、私の挙げた資料や文献をことごとく論破している筈です。



まったく不誠実この上ない教科書会社であります。





なお、私と東京書籍との公開質問状と回答の遣り取りは、すべて以下のインターネットの私のブログに掲載しております。






【笠原十九司氏の『南京難民区の百日』】



一方、虐殺があったとする「虐殺派」はどうか。



2例ほど紹介致します。



 南京虐殺本を何冊も書いている虐殺派の大御所、笠原十九司氏も、虐殺が無かったことを示す当時の一次資料を否定する事が出来ず、次のように述べています。



「拙著『南京事件』(岩波書店)・『南京難民区の百日』(岩波書店)を読んで下されば分かるように南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない。集団虐殺のほとんどが城外、郊外、長江岸で行われたのである」(『サピオ』19981223日号)    (下線は引用者岡田)



と、南京城内での虐殺を否定せざるを得ず、場所をごまかして、逃げてしまいました。





 では、笠原氏の言う南京の城外、郊外、長江岸は、果たしてどうだったか。



そこでは、日本軍に利用されない為に支那軍が次々に家を焼き尽くしており、その様子を南京にいたアメリカ人新聞記者や、外国人が記録しております。





ニューヨーク・タイムス、ダーディン記者の記事



 「首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使い得る農村の建物を焼き払っているのである。ある谷では一村が丸々焼けていた。」(昭和12127日)



 「南京は深い雲の層によって囲まれた。昨日、中国軍が半径10マイル(16キロ)以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。」(128日)





シカゴ・デイリー・ニューズ、スティール記者の記事

 「中国の首都防衛軍は自らの覆いを織っている。頭上に重苦しく垂れ込めた煙の幕、中国軍の銃、砲撃のため戦場を清野にしようと燃やされた郊外地区から、城壁を超えて街の中に煙が大波となって拡がっている」(129日)



 「今や、地平線は三方にわたって、城壁周辺の中国軍に放たれた火の噴出によって赤々とまばゆいばかりに輝いている。」(1210日)

(以上、『「南京虐殺」への大疑問』松村俊夫、展転社、p.27~32)





南京国際委員会委員長、ジョン・ラーベの日記

(『南京の真実』ジョン・ラーベ、講談社、1997



「城門の近くでは家が焼かれており、その住民は安全区に逃げるように指示されている」(127日)p.88



「城門の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人たちが次々と送られてくる」(128日)p.89



「西南の境の丘から、炎と煙に包まれている町の周り一帯が見える。作戦上、火を付けたのだ。町中が煙の帯に取り巻かれている」(129日)p.91



「燃え盛る下関(長江岸の港町)を通り抜けての帰り道は何ともすさまじく、この世のものとも思われない」(129日)p.92



金陵女学院の責任者、ミニー・ヴォートリンの日記(金陵:南京の古い名称)

 (『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』大月書店、1999



「北西以外のすべての方角からもうもうと煙が立ち上っていた。中国軍の目的は、全ての障害物、例えば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり、身を守るのに役立つものを取り除くことなのだ。AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火を付けている所を目撃したと言っている」(129日)p.41  



もし、南京城外、郊外、長江岸で虐殺があったとすれば、その犯人は支那軍でありましょう。





【『南京難民区の百日』の表紙の嘘】



 また、笠原十九司氏は、その著書『南京難民区の百日 虐殺を見た外国人』(岩波書店、1995)の表紙に、国際委員会の六人の外国人の写真を挙げ、その下に、「虐殺を見た外国人」と云う説明を付けています。







 表紙だけ見れば、さぞかし沢山の虐殺目撃事件が書かれていると思われます。
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 ところが、本の中で紹介されている国際委員会の外国人が目撃した虐殺事件は、アメリカ人ジョン・マギー牧師の1件だけなのです。




それも、目撃事件とは呼べない事件です。





笠原氏の本のマギー牧師証言は、以下の通り。



 『ジョン・マギー牧師の日記(1219日)はこう記している。



 私たちは一昨日(1217日)、私たちが住んでいる家のすぐ近くで、哀れな市民が殺害されているのを目撃した。中国人のほとんどが日本兵にびくびくしていて、誰何(すいか)された時、愚かにも逃げようとしてしまう。



その男はそのために殺された。殺害される瞬間は目撃しなかったが、死体はここから見える竹垣の角に横たわっている。



あとでコラ・ポトシボロフが死体を見に行き、頭を二発撃たれていると言った』   

(『南京難民区の百日』岩波書店1995  p.207





 この証言には、問題があります。

第一は、これは虐殺とは呼べない。



 戦場で兵隊に誰何(すいか)されて逃げ出せば、敵であるとみなされ撃たれるのは当たり前でしょう。





第二は、マギー牧師は殺人の瞬間を見ていない。



マギー牧師が見たものは、逃げる中国人と中国人の死体であり、死体は別人の可能性がある。



そして、ご丁寧に、本人も「殺害される瞬間は目撃しなかった」と言っています。



これで目撃したと言えるのでしょうか。





これが、笠原氏が『南京難民区の百日』の中で取り上げた、ただ一件の虐殺目撃事件であり、この他に国際委員会の外国人の目撃した虐殺事件は、一件も紹介されていません。



にもかかわらず、笠原氏は、表紙に国際委員会の六人の写真を載せて、その写真の下に「虐殺を見た外国人」と説明を付けています。



これは、詐欺です。





【マギー牧師は殺人事件を目撃したか】



笠原氏が怪しいなら、マギー牧師も更に怪しいのです。



マギー牧師の殺人目撃事件をもう少し検討します。



『南京安全区の記録』は、国際委員会が日本大使館に出した抗議文を集めたものですが、この中で、国際委員会のメンバーでもあるマギー神父は、殺人事件に関して、1件の発砲事件、2件の殺人事件を、署名入りで日本大使館に抗議しています。



まず殺人事件から見てゆきます。



1件目の殺人事件は、昭和1312日で、抗議文は下記の通り。



「(支那人の)徐博士は四時半頃呼ばれ、男が死んでいるのを見た。ジョン・マギー師も少し後に到着し、同じ光景を目にした。」

(『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』p.225



マギー牧師は、死体を見ただけです。





2件目は、113日の事件では、



「ジョン・マギー氏が聞いた話によれば、1213日から14日にかけて、南京のある家族13人の内11人が日本兵に殺され、(以下省略)」(同上p.294



マギー牧師は、噂話を聞いただけです。



3件目の発砲事件ですが、これは笠原氏の本の事件と似ており、同一事件と思われます。



それは以下の如し。



1217日、この日の午後四時ごろ、EH・フォスター氏、ボドシヴォロフ氏、ジアル氏と私の四人の外国人が住んでいる大方巷にある家の近くで、34人の日本兵が一民間人を銃で撃った。(マギー)』(同上p.180)



これが抗議文の全文です。ただこれだけです。(なお、文末のカッコの名前は抗議文を書いた人物の名前です)





この文章は、何とも怪しい文章です。



まず、誰が目撃したか書いていません。

次に、人に弾が命中したのかどうかも分かりません。



もし撃たれたとして、撃たれた民間人が死んだのかどうかも分かりません。



これは単なる発砲事件で、殺人事件とは言えません。





以上のように、マギー牧師が日本大使館に抗議した事件は、死体を見た話と、殺人の噂話と、目撃者のない発砲事件の3件だけです。



これら日本大使館に提出した3件の抗議文から判断すると、当時マギー牧師は殺人事件を目撃していないと思われます。





さらにマギー牧師が殺人事件を目撃していなかった傍証があります。



当時、南京の国際委員会や国際赤十字で一緒に活動していたジョン・ラーベ(国際委員会の委員長)、そして、アメリカ人女性ミニー・ヴォートリン(金陵女学院責任者・国際赤十字委員)がいますが、この二人の日記



『南京の真実』ジョン・ラーベ、講談社、1997

 『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』大月書店、1999



ここには、いろいろな噂話が載っています。



例えば、ラーベの日記には、グレーガーとハッツが目撃した日本軍の合法的な処刑も載っています(『南京の真実』p.172)。



しかし、二人の日記には、マギー牧師が目撃した殺人事件がありません。



まことに不思議な話です。



 さらに、ラーベもヴォートリンも、自分自身で目撃した殺人事件は1件も日記に書いていません。彼ら二人も殺人事件を目撃していません。





【マギー牧師の東京裁判での証言】



 また、マギー牧師は、終戦後の東京裁判において、2日にわたり日本軍が行った南京大虐殺の証言を行います。

(『「南京大虐殺」はこうして作られた 東京裁判の欺瞞』富信夫、展転社 p.34



ところが、マギー牧師の2日間に及ぶ南京大虐殺の証言は、そのほとんどすべてが人から聞いた噂話、伝聞ばかりでした。



 そこで、日本側弁護士であったアルフレッド・W・ブルックス弁護士が反対尋問でマギー牧師に、自分で見た殺人事件は何件ですか、と聞くと、



「自分の証言の中でも、はっきり申したと思うが、ただわずか一人の事件は自分で目撃した」(同上p.42)



と言っております。その「自分の証言」は以下の通り。



「その次の日(1217日)、私は二人のロシア人と私の同僚と共に家のバルコニーから外を見ていて、実際中国人が一人殺されるのを目撃しました。



彼は通りを歩いていた時、後ろから日本軍人に誰何(すいか)され、驚いて逃げ去ろうとしたが、先の角を曲がったその前方に竹垣があって行き止まりになっていたため逃げる事が出来ず、追いかけて来た日本兵は彼の顔に発砲して、彼を殺したのである」(同上p.36)



これがマギー牧師の東京裁判での2日間にわたる証言の唯一の目撃証言です。





マギー牧師の証言をまとめると、次の通りです。



南京の日本大使館への抗議:(目撃者のいない)発砲事件

自分の日記:「殺人の瞬間を見ていない」殺人事件

東京裁判:「実際中国人が一人殺されるのを目撃」した殺人事件



聖職者にもかかわらす、マギー牧師は嘘つきです。

【笠原氏の不思議な文章】



ここで話を笠原氏に戻します。



笠原氏は『南京難民区の百日』の中で、不思議な文章を書きます。



「悲惨で残酷な事件はむしろ、安全区委員たちの目の届かない、(中略) 難民区以外の隔離された地域でむしろ多発した。その多くは、目撃者も少なく、ましてや、それらを記録する人もいなかった」(p.249



 「日本軍の残虐行為による死の恐怖、凌辱の恐怖に長時間にわたってさらされ続けた南京の難民、市民の中には、こうして「心に致命傷を負って」自殺した人や「心の障害」を受けた人たちも少なくなかったと思われるが、記録に残される事はなかった」(p.279)             (下線:岡田)

              

 目撃者も無く、記録も無いのに、笠原氏は、どうやって残酷な事件が起こった事が分かったのでしょうか。



笠原氏は超能力者なのでしょうか。



自分の想像で歴史を書かれては困ります。



この文章が、我々国民の税金が使われている国立大学の元教授の文章です。



まったく驚くばかりです。







 なお、笠原十九司氏の経歴は、ウィキペディアによると、次の通りです。




1999より(中国南京師範大学南京大虐殺研究センター客員教授、

2000より(中国南開大学歴史学部の客員教授を務める。         



 彼の経歴を見れば、笠原氏が中国と非常に近い人物である事が分かります。



【松岡環氏の『元兵士102人の証言 南京戦』について】



 つぎに、虐殺派の一人といわれる松岡環氏が編著した『元兵士102人の証言 南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』(社会評論社、2002)を取り上げます。



この『元兵士102人の証言』に登場する元兵士102人が、すべて仮名です。   本の凡例に「仮名にした」と書いてあります。(p.14



仮名ですから、本人確認が出来ません。



この時点で、この本の資料価値はありません。



本名が分からないので、実在の人物であるかどうか、さえ分かりません。



 一方、例えば、南京虐殺の「まぼろし派」阿羅健一氏の『聞き書き南京事件』(図書出版、1987)は、登場人物48人がすべて実名です。



 これを比べて見ても、「虐殺派」、「まぼろし派」、それぞれの特徴がよく表れています。





 さて、この松岡氏の『元兵士102人の証言』に出て来る102人の元兵士うち、59名が京都第16師団第33連隊の兵士ですが、33連隊の戦友会会長市川治平氏の話によると、平成8年(1996)の時点で、存命中の33連隊の元兵士は30名以下であり、その内、南京戦参加者は13名です。

(『南京「事件」研究の最前線 平成十七・十八年合併版』東中野修道編著p.161



 しかるに、松岡氏の本の説明によると、本の取材を始めたのは、その翌年、平成9年(1997)からと書いています。(102人の証言』p.16,17)



 取材の1年前、13名しか存命でなかった33連隊の元兵士が、59名も登場すると云う事は、一体どう事でしょうか。



46名はどこから出て来たのでしょうか。



幽霊にでも取材したというのでしょうか。



松岡氏の『元兵士102人の証言』は、まさにプロパガンダ本そのものです。







 また、松岡環氏は、中国のネットで、次のように報道されています。



『北京週報 pekinshuho.com

記念館、南京大虐殺を研究する日本人教師を表彰

侵華南京大虐殺遇難同胞記念館(南京大虐殺記念館)は815日、1回目の「南京大虐殺史調査研究特別貢献賞」を、日本人教師の松岡環さんに授与した。



松岡さんらは、南京大虐殺の生存者180人の家庭への取材を基にした「南京戦・切りさかれた受難者の魂」や、南京大虐殺に加わった旧日本兵への取材を基にした「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」などの著書を日本で出版し、大きな反響を呼んだ。(2005年)』








  中国の南京虐殺記念館の壁には、犠牲者数として300000という数字が掲げられています。



この南京虐殺記念館から表彰される松岡環氏とは、一体どういう人物なのでしょうか。







 いずれにせよ、東京書籍は、大嘘の「南京大虐殺」を書き、実際に日本人が虐殺された「通州事件」は書きません。



今頃、中国は、「日本人は本当に大馬鹿だ。教科書を使って中国のプロパガンダを宣伝してくれている」と、腹を抱えて大笑いをしている事でしょう。





例:その10 【日本軍はフランス領インドシナを占領したか】



 また、「太平洋戦争の始まり」の項で、東京書籍は、次のように書きます。



『アメリカは、(中略)日本がフランス領インドシナを占領すると、日本に対する軍需物資の輸出を制限し、石油の輸出も禁じました』p.192



 「日本がフランス領インドシナを占領する」、これは、いわゆる日本軍の仏印進駐の事を指しています。



東京書籍は、日本軍が「占領」したと書いていますが、事実はどうなのか。



仏印(フランス領インドシナ)進駐は二回ありました。



第一回の日本軍の北部仏印進駐は、昭和159月、松岡・アンリ協定に基づいて行われた。          (東京にて;松岡外相とアンリ駐日大使)



第二回の南部仏印進駐は、昭和167月、加藤・ダルラン協定(日仏議定書)に基づいて行われた。   (フランスにて;加藤駐仏大使とダルラン仏外相)

(吉川弘文館『国史大辞典』、第12巻、p.274、平成3年版)



二回とも、日仏二国間協定に基づく日本軍の進駐です。



「国際条約に基づく進駐」が、どうして「占領」でありましょうか。



東京書籍は、明らかに子供達に嘘を教えています。





そもそも、英米は、仏印(ベトナム)経由で、重慶の蒋介石政府に軍事物資を送って、どんどん日本と戦争しろと裏から蒋介石をけし掛けていました。



英米は、第三国でありながら、支那事変に介入していたのです。



日本軍は、輸送経路(援蒋ルート)の入り口であるベトナムに進駐し、それを阻止しようとしたのです。それもフランス政府の了解のもとで。



そもそも英米による重慶政府への軍事援助が無ければ、日本軍の仏印進駐は必要がなかった。



原因は、英米であり、日本ではありません。



原因と結果を逆に書く事は、明らかに歴史の歪曲です。









【アメリカの日本に対する経済制裁】



また、東京書籍は、



『アメリカは、(中略)日本がフランス領インドシナを占領すると、日本に対する軍需物資の輸出を制限し、石油の輸出も禁じました』p.192



と、日本の仏印進駐(占領)が原因である、と書いてありますが、アメリカの「日本に対する軍需物資の輸出制限」は、仏印進駐よりも遥か以前から始まっております。





以下、アメリカの対日経済制裁を、時系列で見てゆきます。



<ルーズベルトの「隔離演説」>



 北部仏印進駐の3年前、昭和12(1937)813日に第二次上海事変が起こりますが、2ヶ月後の105日、米国ルーズベルト大統領は、シカゴにおいて、『隔離演説』と呼ばれる有名な演説を行い、侵略者を隔離せよ、と宣言します。



Without a declaration of war and without warning or justification of any kind, civilians, including vast numbers of women and children, are being ruthlessly murdered with bombs from the air.

(中略)

The peace, the freedom and the security of ninety percent of the population of the world is being jeopardized by the remaining ten percent.

(中略)

 When an epidemic of physical disease starts to spread, the community approves and joins in a quarantine of the patients in order to protect the health of the community against the spread of the disease.

(中略)
It is my determination to pursue a policy of peace.

(中略)

War is a contagion,

(中略)

America hates war. America hopes for peace. Therefore, America actively engages in the search for peace.



Franklin D. Roosevelt's Quarantine the Aggressor speech, delivered at Chicago, Illinois - October 5, 1937.



<抄訳>

「宣戦布告も無く、警告も正当な理由も無く、非常に多くの女性や子供を含む一般市民が空爆によって無慈悲にも殺されている。



世界の90%の人々の平和と自由と安全が、10%の人々によって危険にさらされている。



伝染病が発生したら、人々を病気から守るために、皆が協力して伝染病の保菌者を隔離しなければならない。



私は平和を求めて政策を実行する事を決意した。



戦争は伝染病である。

 

アメリカは戦争を憎む。アメリカは平和を希求する。それ故、アメリカは積極的に平和の追求に関与して行く」

引用終わり


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